教育と社会

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 最近、youtubeでサーフィンしていたら合唱曲がたまたま出てきました。自分の中学には過去に事件が起きたとかで文化祭がなかったため、合唱コンクールと体育祭が二大イベントでした。体育祭はどちらかというと活躍できる人が限られており、できない人を無理やり頑張らせるような印象はありませんでした。(日本でスポーツがエンターテインメントとして受け入れられにくいのは学校体育の質の低さが原因の一つにあると思います。)ところが合唱コンクールとなると急にクラス一丸となってやろうみたいな空気にクラスがなりました。特に私の学年は歌がうまいとか先生たちに言われて乗せられていた部分もあると思うのですがみんな頑張っていました。ただ私からするとなぜ歌うことを強制されなければならないのか疑問でした。多くの運動が苦手な人が体育に感じるような嫌悪感を合唱コンクールに持っていました。
 いつからか、みんなで何かを一緒に成し遂げるということに魅力を感じなくなってきました。特に共通の目的を持つ人たちと同じ目標に向かって努力するのはそこまで違和感がなかったのですが、クラスという趣味嗜好もやりたいことも異なる人々を無理やり一つにまとめ上げる意味が分かりませんでした。一生懸命にやっている人たちを邪魔する気はさらさらないのですが、同じ熱量をこちらに求められても非常に困ります。中学の頃はやはり子供だったので周囲と軋轢を起こしました。ただ、学校でクラスの中心になるような人たちはそういうことがうまい人たちなんだと思います。学校の成績もテストの得点だけでないので心象がものをいう部分もあります。そう意味では自分は損をしてきたほうだと思います。(逆に大学入試などでは得点しか見ないので楽でした。)
 社会で成功している人は、たぶん学生時代にそういうことが上手かった人だと思います。日本の大部分に残る、会社に尽くす風潮は学校教育の延長だと思います。みんなで一緒に頑張ろうの精神が根付きすぎているのだと思います。会社と従業員はあくまで契約関係なので双方の利益が合致する場合のみの関係でいいと思います。全員が同じ意識でやっていくには会社及び部署という単位では大きすぎると思うんです。基本的に生活の中心はプライベートであるべきで仕事にどういう形でコミットするかなんてのは人それぞれだと思うんです。いろいろな人がいる中でそれをうまいこと使うのがリーダーの仕事であるべきだと思うので、リーダーが部下にこうなって欲しいと思うのは勝手ですが、その人がどうするのかはその人が決めるべきだと思うし、それが会社の目的と一致しなくても当然だと思います。
 さも当然のように会社に貢献することを求められますが、それはこちらに利益があってこそだと思うのでもっと真の意味での多様性が日本の社会に浸透すればいいと思います。

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